風に吹かれているようなのだが・・

軽度の鬱状態である日々の出来事やら関心事を、眠る前に記しておきたい、

水曜日 介護殺人 温情裁判 ②

一日は早い、水曜日も終わろうとしつつ時は刻まれていく。今日から明日にかけて直線コース(昨日からの下りです)であるがゆえ、考えることは何とかできたが、やはり結論は先送りだ。

 

ふと、今日の地方紙の社説で介護殺人の記事が出ていたので、再度取り上げることを寛恕してほしい。

先日も、何度かいったが、介護殺人なんてものはないのだ。

なんで介護殺人と標記するのか、その神経を疑う。(その解説には、我々はこれを介護殺人という、とかなんとか書いてあったけれど)

 

もちろん介護が大変なことであるのは十分承知している。

にっちもさっちもいかない、何ら解決の糸口さへみつからない介護は、まさに今の日本の現実だ。

 

他方で、また殺人事件そのものもあることだろう。テロや犯罪、怨恨その他(大きく言えばあらゆる名を借りた戦争)、社会の格差の裏腹で、、が、なぜその殺人と介護が連動するのだろうか。(熟語なんかにしちゃっているのか?)

自分たちが怖いから? 親の首を絞めてしまわないか不安がつきまとうから?

 

虐めと殺人、虐め殺人とはあまり聞かないし、言わない。

なぜなら、虐めと殺人を連動させることには躊躇があるからだろう。(あってはならないことだからという、まだ全体のコンセンサスがあるのだ)

 

つまり、介護(大変な)の果ての殺人(殺人のレベルは?悲しすぎる)は、ある程度の了解事項(仕方ない)であるとの世間一般のコンセンサスが取れていると勝手に感じて(報道側が、)のことなのだろう

しかし、そんな了解事項など、どこからも得られてもいないし、こんな言葉を使用する人を自分の周りで見たこともない。(私は・・)

だから、なんとなく報道も常に逃げ腰である(と感じる)。皆、自分の親を抱え、子羊のように震えているからだろうか… 

 

姥捨て山というものが、昔あったと聞く。往きも復りも地獄であったことだろう。 そういった覚悟をメディアは抹殺する。いや、したがる。

そして、公共放送の場で、介護の末の殺人(と言っていいのかわからないが)について、そこらあたりの何ちゃってのメンバーたちがあれこれコメントし、ラストはチャンチャン(予定調和的な)で終わり、はいお疲れ様だ。

当然その方々にも親も子もいることだろうけれども・・

 

もう少し、メディア様よ、議論を深めないか? 

もちろん答えなんかないだろう(今は)が、このままでは、必ず20年後あたりに日本はきっと亡国の道を辿るのですよ。 

 

だが、現実の社会の情緒はただ、いまの享楽を甘受することが社会の成り立ちであると信じ込まされ(誰に?)、それこそが現実社会の発展につながるのだと感じている。いや信じている、信じたいのだ。振り向きたくないのだから…

 

あらゆるものが消費されるだけの社会だから、すでにそういう社会が成り立ってしまっているから、誰も面倒な、また無益なことに対し直視したがらない。最終的に弱い者だけが置いていかれる。 

だけれども、そこに何が残るのだろうか?

 

皆でもう一度、見直してみないか! 

怨恨の連鎖では成り立ちえない社会であることを、弱者を排除しながら一人歩きする国家の醜さを、きれいな言葉だけで、てなづけられた自分達の人生を・・

 

このままでは崩壊だ。維新が起きるのかもしれないよ。。。。