風に吹かれているようなのだが・・

軽度の鬱状態である日々の出来事やら関心事を、眠る前に記しておきたい、

Wi-Fiのブースター設定が整った

一昨日から色々悩んだ。

Wi-Fi環境があまり良くなく、電波増幅のための製品を購入した。製品のレビュー等からすると簡単に設定できそうな雰囲気であったけれど、俺もそう思っていたけれど、実際はうまくいかず昨日夕方まで長い時間をその迷路の中をうろうろ&イライラしていた。

ひとつの抜け道は早く製品のカスタマーセンターに連絡をして、すぐにこの案件を端折るということだ。というのも、まあ抜け道ではないかもしれない(当然の流れである)が、こんな目的手前の些末な問題で、時間を費やされたくない、また精神を浪費されたくないという感情があった。

しかし、だがこれを実行して解決してしまえば、なんらそこに思考的に得るものはなく、もちろんきっと、設定が可能になったという結果は出るのだろうが、そんなのもなぁ、というすこし躊躇めいた色合いの感覚も、俺の中で醸成された。

要は、問題はこの両方の思いが等価であったことだ。袋小路に入っていった。意地になっていた。

 

昔、会社員時代に介護保険がスタートする動きの中で、(会社から指示を受けて責任者としてこの部門の事業に参入した)、法の立て付け、解釈、事業運営のあり方、展開、そして現場においての請求(独自のソフトまで作った)のあり方、そして自分なりの解答及び実行等々、悩み抜いた日々がある。その感覚が何故かふと思い出されたためかもしれない。

そして本日、かたりと忘却の午前を過ごし、何ということなく近場の温泉に浸かっていた。湯面から湧出する泡を眺めながら、ふいに何とか解決したい、とまでの強いこころは芽生えなかったけれど、普通に、もう一回、再度出だしから試してみようかという気になった。自宅に戻りそういった面持で、激情もなく、淡々と、製品の設定説明に沿って道なりに歩いていると、忽然とその筋道が俺の目前に表出してきた。

ここが、まさに現実の意志なのだ。いや、いままで何度もこの部分は経験していたのに、体感していたはずなのに。やはりそうであったのだ。

現場が、事象へのぶつかりが恐らく全てを教えてくれる。

知恵への嗅覚が、共鳴が、急激に上昇してくる。おぉ、まさに。。

5分前までは予想だにしていなかったのに。

平然とした面がまえで出現する現実。という奴ら。こいつら…

そしてすんなりと、更けていく夜を灯すように設定完了のランプたちが点灯していく。なんと普通なのだろう、なんと意識と行動が合致していたのだろう。当たり前すぎて微笑んでしまう俺がいる…

 

といった流れにより、ビールを呑みながら動画再生を楽しむ夜である。

 

今ニュースで梅雨が明けたと報じていたけれど、外は雨が降り出した。

雨音は激しくなりつつある。

でも、ふと思う。なぜ忘却させられるのだろうか。

ふと大河ドラマみた(急に)。常に時代は変転している。。

誰が、どのように感じようと時代は変転している。

誰もが認めているように、日々は刻々と移り変わる。

 

要は、それを同時代もしくは後のメンバーがどう発言、発信するか、ということであろう。

昨夜、大河ドラマを見てふと感じた。。  各種の思いはあるが、時代の切り取り方は各々であってよいことだろう。 別に偶像崇拝をするつもりもないし。。

 

ただ、歴史のもうひとつの見るべきところは、大きな意味での癒しであると思われる。

 まだ、連綿と続いている存命の方もいらっしゃる時代においては、なおさらだ。

 

もうそっと、ゆっくりと見てみたいいまの大河でした。(感想になった、笑)

 

あまり視聴率はよろしくないらしいが、、   

まあ、切り取り方ではありますよね。   

 

でも、多くの視聴者としての思いは、基本的には物語によって感動し何かを感じたい、それだけだ。そんなそれ以上の大したものを望んではいない(失礼な言い方ですが)。 

でも、その感じ方が現在では様々であるということなんでしょうね。。

 

が、王道の感じ方。。 いやあるかもしれんが、それはまた王道に入りすぎるとなんか全体主義的な雰囲気も感じたり、つらいものもありますね。

 

 

ところで、急に話は変わりますが、現政権のいまの時代においての、国民レベルでの三割強が認知しているのは、大変なことですね。 もうびっくり。。また上がったりしているし…

 

だけれども、君ら(メディアの奴ら)がいつも口をそろえるように…

もう、支持率とか、視聴率とか。過去の廃棄物になっているものを、いつまでも大事に拝んでるマスごみの君ら。。  ああ 悲しくつらい。。

 

もっと、若者らは、進んでいるよ。そう現代は。。

もっとあるのではないのだろうか。皆の思いを届けたり求めたりする術が。。。

 

全職員、どぶ板で各家庭をアンケートで回ってみれば。。いいかも。。。

 

朝から二日酔いのためグダグダになっている自分について

いつも酩酊の二駅前くらいで下車したいとは思ってはいるのだけれど

どうもなかなか知らぬうちにその停車場はとっくに過ぎてしまっていて、

気が付いてみると…

いやはや、なんとも乗り過ごす失敗の連続です。まさに、学ばない。

 

ほろ酔い駅から 酩酊駅まで 何駅ほどあるんでしょうかねぇ?

 

どこかその中間駅あたりで、乗車前は降りたいと思っています。

本当に決意しているのですが…

もちろん山間の線路だから、揺れも激しいし夜行(ほとんど)も多いので景色も見えにくいし、いや見えない。見えていない、当然です。

 

意識すべきは、程よいアナウンスとかすかな記憶、そして駅名を追っていかないとこれはいけませんね。    

加えてほろ酔い駅からは、若干スピード上がってきますので、相当に十分以上の配慮が必要です。 ほとんどこれ以降の駅では下車不能です。(笑) 

 

きっと本当は、ほろ酔い駅前あたりで、下車する習慣があれば一番良いのでしょうが。

過ぎていく列車に焦がれる思いを振り切れなく。。

不覚にも。残念な限りです。  いつも、いつの時でも…

 

生来の口の卑しさなのでしょうか。そこで十分である、知足たりとの習慣が根付いていない。

 

より以上を求めたがる、飲みつくしてしまいたい欲求にかられる。 餓鬼の世界やなぁ、、 

恥ずかしい。もう、うんざりだよ。。俺だって。。

本当に そうは思うのだけれど。

 

失意と決意の間を、今日もふらつく二日酔いの朝から昼…

ひとカラで感じた社会情勢なんかについて、、

本日も、うだるような暑さだ。暇をもてあましヒトカラ(一人カラオケ)に行った。

 

歌うことは非常に心地よい、ストレスの発散にもなる、また呼気、吸気の意識的な連続が体調にいい影響を与える。ヨガ等でよくいう呼吸法に似ている。

日本も、もう少し歌唱の重要性を認識すべきではないだろうか。まあ、各々はしているだろうからこれだけカラオケ等が中高生の間で人気なのだろうけれど。

オリンピックや各種競技前にも連帯感や意識高揚のため国家を歌う。歌は祈りに似ている。昔から言霊といわれるが、我々は、言葉や歌で感動や感銘を受けたりいつもしている。

 

素晴らしい文章、絵画、彫刻、映画等それらのものに触れた時も、多大なる感銘は、もちろん受けているけれど、私自身はそういった音楽及び歌唱に出会えたときに、一番感情が左右される。

これは私だけの思い?

まさに、日本発のカラオケ文化が世界を席巻(そこまでいってないか)しているらしいが、さもありなんとおもう。歌は得て不得手と関係なく、自己発散・解放の原動力であり、ある時は自分自身及び仲間たちを鼓舞する源でもある。

 

いや、私の言いたいことは、幼いころからの授業の中で、もっと音楽、歌唱等について授業の時間をしっかりと意図して作っていくべきだと信じるものである。(皆の前で恥ずかしい生徒は、個人レッスン等もありで。。)

 

外(社会)に、これだけのカラオケ文化もある。そのこころは?? このうだるような静電気を帯びた世間において自己表現の場がないのだ。子らは、いや大人たちも。

そこに対応していくのは教育として必要だろうし、ことにその基本になる発声練習等は、現代社会において必要な科目(教育)ではないだろうかと感じている。

 

現在までの音楽授業といったものを見直し(かと言って現在の授業を見にいったことはないがw)一度、実験的に歌唱というものに重点をおいた年度計画を作っていったらどうだろうか。もちろんクラシックも聞く等多くの音源に触れ、学問的な素養も培いながらにおいての話ではあるけれど、、、、

 

自身の体験でいうと、歌うと心地よい、脳内の世迷言が発散できる。もし歌手等であれば(想像するに)、聴衆が自分の歌を聴き盛り上がると全身がカッと鳥肌も立つだろうし、拍手喝采などがあれば自己実現の最たるものであろう、と思われる。

 

まあ、でも歌手といわれる方々の多くが、すべての礼讃や尊敬に浴していないことも重々承知していますが。。

でも彼らは、恐らく歌うことがきっと楽しいのだろうね。誰に認められなくても、気持ちがいいのだ。それを知ってしまったら、忘れられないのだよ、きっと…。これは他の分野においても同様なことが起こる。それは重要なことである。人は評価が欲しい!

 

だが自己表現の、一番わかりやすく認識しやすいものがではないだろうか。

自己表現の在り方は、もちろん様々だ。文章で表現する作家もいる、肉体で表現するアスリートたちもいる、ダンサーもいる、バレリーナだって、皆自己の重要性を表現したい、知って欲しい、自分を認めてもらいたのだ。

歌は、恐らく一番身近で、自己を表現できる世界である。だって肉体以外何もいらない。

 

だから、先ほどからいうように、若い時に、音楽の授業等で、歌唱法、国語でいうところの文章能力、体育でいうところの反射神経等々を鍛えていくことが大切だと思うんだけどなぁ。

だって昔のように、天や地に収穫の恵みを祈り感謝する祭りにおけるところの歌や踊りがいまやないのだから… 私がすこし偏り過ぎですかねえw。   

 

社会は進んで(変化いや変容していく)、校舎や校庭の外で・・

 

そこに合わせ、学校教育も変わらねば(大分話が大きくなったがw)、あらゆる変革及び暴力(テロ)においてもそうだろう。

その成り立ち、有り様、これからのものの考え方、とらえ方(色んな角度や立場から)の教育がもちろん必要だ。これだけの多様化を我々が進めてきたのだから。

 

しかし、私の単純な経験則からいうと音楽は、福音かもしれない。 思想も黙り込む…かな?

 

もしかしたら、読み書きだけを教える時代は終わってしまったのでは??   

な~んて思ったりした、今日のひとカラ・・・

 

精神(脳)と自然物理の関係について 

これは、私が幼い頃から今まで感じていたことだったが、この世で一番の力をもつG(重力)に関して、私自身、各種の疑問があった。

 

 ・精神(身体は常に感じているが)の作用は、Gの影響下にあ 

  るのだろうか。 宇宙飛行士は??…        

 

 ・例えば、遠距離恋愛等はGの力により、貶められていくの

  か。投げたボールのように放物線を描きながら…

  (確かに距離と思いは比例する、ように感じる場面によくで            

   あった経験から) 単身赴任者は??・

 

 ・当然、自然物理は人間も支配下においているだろう。もちろ

  ん国家も、自然もそれらの土地も。事故も事件も、各種の災

  害も。

 

 ・もうひとつ、作用反作用の原理、これも人間関係に近すぎる

  し分かりやすい。これは後日やろう。。。

 

 ・もし精神が崩壊する前後になったら、そこらあたりで腸管

  (脳以上に身体を根源から支配するいわゆる免疫)からの何

  らかの信号を出してれるのだろうか。

 

 ・本来は、もっと原始的で、よく言われる腸管(免疫能力)の

  支配下に、個々人の能力(生命力)の全てはあるのだろう。

  その自己の世界と現実世界との接触する各種の判断は、どこ

  らあたりで生れてくると思えばいいのだろうか?

 

 結論とまとめ

 ・ある意味ということでこの腸管を、切磋し琢磨することが、

  一番の精神及び身体の、及び世界の安定に必須要件になって

  くるのだろうと信じよう。

 

 ・その鍛え方は? 鍛錬の方法は? もしくは善悪の判断は、

  等(自己をしっかり守っている彼らに、他者を守ることへの

  指示を脳に与えることは可能か?自身を支配下においている

  のだから。)仮定です…

 

今度、そこら辺りに詳しい知り合いのDr.がいるので聞いてみようっとw。。

と、思っているいけてない初期高齢者です。。。。

定年と更年期と孤独及び連鎖について考えてみた。。

今年度で定年の予定なのだけれども、いま若干不調をきたして休職中の身であります。

本来は、昨日からの出勤予定であったのだが、こころのエンジンが、なかなかかからず、調子が上がってこない自分が不甲斐ないところです。

 

大学卒業以来、入職してからこんなこととは無縁であったのだけれど何かが何かに反応しているのだろう。

男の更年期障害なのでしょうか?

 

老いていく現在と、次の段階(プレ前期高齢者)に進みたくない、まだこちら側に居座りたい自分との葛藤もあるような気がしていますが、、、

 

話は変わりますが、

息子はもう十数年前から他国で仕事をしている。 

家内は三年程前から、単身で出張中である。

そして、今年(つい最近)娘が、仕事で旅立っていった。(他国へ)

 

恥ずかしながら、私の、淋しさ、哀しさ(悲しさ)に言葉はない。

その孤独を文字で表現することは、わたしの能力を超えるところである。(彼らの自立を愛でる気持ちも含めて)

時折、夜中に目が覚め背中あたりから、ぐうっっと断続的に寂寥感が襲ってくることがある。 さみしいのだ。。

 

しかし、いまブログだから(失礼の言い方になるが)、さほど気負わず書けるので、ありがたいけど。 

もちろん、子らは巣立っていく。自分たちもそうであったし、またいつか終焉を迎えていくのだろう。人生の連環の中からはみだせないのだから。

 

ただ私には、知識がなくわからないことがある。

 

雛たちは、もちろんある時期が来たら巣立ちが始まる。

その時、親鳥の思い(?)というものは、種の維持という本能による使命感の中で昇華されているのだろうか。いや使命感なんかでもなく、日常の連綿と続いてきたごく普通のことなのだろう。

しかし、かすかな一瞬、雛鳥たちと過ごした時間に、想いを馳せるのこともあるのだろうか、涙したりするのだろうか?

 

 

 

また突然ですが、昔でいう還暦は、日本人の食生活、衛生環境、医療制度や、社会の変容等、諸々の部分も含め10~15年は押して(伸びて?)いることだと思われる。

我々の年代にとってありがたいことであるが、そこには多くの労力と、努力が結集されてここまで成り立ってきたのだろう。

 

しかし、ふと振り返れば我々が得てきたものと、無くしてきたものの引き算はどうなっているのだろう。もちろん算数的正解はないだろう。世の中から、格差や、事故、事件(テロ等も含め)は、一切なくならない。

 

我々は、先人の努力や向上心によって多くのものを獲得してきた(というより受け渡されてきた)。が、ただ、その分配のあり方に対する細心の注意が図られてきたのだろうか。

 

もちろん、私程度の人間が語れないことではあるけれど、正にしろ負にしろ連鎖は、どこかで、誰かが断ち切らないと終わらない。

 

だけれど、でも、しかし、連鎖は表裏一体(正も負も)で、本能に近く、理性から遠い。

 

やはり、出だしからやはり話がずれてしまったよ。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

友よ...

 

古くからの、友人の突然の訃報が届いた・・・

                          

 

 

友よ

どれだけ多くの時を君と語り

また その時々において反目し合ったことだろう

アパートメントの階段で 倉庫で

小学校の廊下で殴り合い

屋上で 君の部屋で

僕の家で それらのところで

 

友よ

どれだけの時を過ごしたことだろう

ガキの頃から互いの生活に干渉しなくなる年までに

 

思い出せば

君はいつも哀しく笑い

そして 照れるように遠くを見つめていたね

 

僕には君の苦悩が見えず

君にも僕の悲哀が映らず

なのに いつも一緒であり

そして よくすれ違い

時折は とても気になり

でも 

忘れることで確認できたりしたっけ

 

 

僕たちは何かにつけ

分ち耐え 懸命に味わおうとした

校庭で バスケットのコートで

体育館の部室の先輩たちの哄笑の中で

ふたりで慰め 嫌になりながら(アイスクリームも食べた)

だけど どこまでいっても満ち足りず

そして 街へ出て貪るように放蕩した

 

そういえば、君に指摘された僕の性格

その言葉は いまでも胸に残っているというのに

君は早々とここから去ってしまうのかい

 

思えば君が一番の理解者だったのかねえ

まぎれもなく親友だった

 

だから 僕もひとこと言わせてもらわねば

君の人を疑わぬ少年のような性格が

君にとって災いしたのか

そんなことが 罪になる世の中だろうに

そんなことも 気づかずに

 

 

ああ 死んでしまった大切な友よ

僕は泣きたい

 

認知症の高齢者(?)に、思いを馳せた夕刻から夜。。

雨音がやんできたため(一軒屋なので、雨音ですぐわかるのです)スーパーに買い物に出かけた。 購入するものは、ほぼ連日同じものなのだけれど、、

だから極力、レジの方々の噂話にならぬよう日々違うレジの方にお願いする癖がついている。(笑)なんにも話に出てきていないとも思いますが。(再笑)

 

そんな調子で夕刻に、丁度スーパーの駐車場に入ろうとしたとき、老人がこちらを見ながら、私の車のすぐ前を急に横切ってきた。運転には十分配慮しているつもりではあるが、すでにスピードも落としていたため接触事故にはいたらなかった。が、一瞬ヒヤッとして汗が吹き出た。

しかし、その老人はこちらがスピードを緩めたにも関わらず、再度、自分の車の前を横切ってきたのだ。 

ん。不可解だ。どういうことか、得も知れぬ不安が湧いてきたが、その表情がなんとなく険しい。私に敵意があるのだろうか、というよりは、もしかして何かに怯え、何かを探しているような、、、いや、後になって思えばのことだったが…

そのまま、私の車を素通りして走りさっていくその姿を見ながら、少し戸惑いがあった。 自分で整理しながら、もしかしたら

認知症高齢者であったのだろうか? 大変、一見の方に対し失礼ではあるが、そういう懸念が心に湧いてきた時には、スーパーでレジを済ませて駐車場に入る時だった。 

 

エンジンをかけながら、先ほどの方はどこに行ったのだろうかという考えが湧いてきて、ハンドルを握り、ライトをつけた瞬間、目の前に、そう目の前のブロック塀を背にして座り込んでいたのだ。こちら(私を)を見ながら…

 

私を、待っていたのだろうか、いや、どう記憶をたどっても会ったことはない(それほど冷静でもなかったが)。なにか、私の運転の出だしの交錯に文句があるのだろうか。もしかして私が誰かに似ていたのだろうか??

でも、でも、単なる散歩? いや

それとも、SOS,or 家から徘徊してきた認知症高齢者なのですか?

 

わたしは、思考回路の殆どがしっくりと流れないまま、車を発進させた。サイドミラーでその方を見ていたが動く気配もない。でもこちらを凝視している(ように見える)。彼(年長者に失礼ですが)の思いはどこに向かっているのか?

ふと、最初の考え、認知症高齢者なのだろうか、という考えが次の交差点あたりで、自分の中でしっかり現実感を帯びてきた。

引き返すべきか、いやそうだろう。そうすべきだ。私はすぐに交差点をUターンし、さきほどの場所へ向かった。 しかし、そこには誰もいなかった。

ん、これは。どういうことだ、なんだったのか、確か駐車場を離れて5分と経っていないはずなのだが・・ その間に、、

 

私は、現実の何かを確認する余裕もなく、警察に連絡を入れた。先ほどからあった事実を伝え、もしかしたら云々という自分の感じたことを手短に喋った。警察も私の携帯で、すぐにGPSか何かで位置確認もされ、とりあえずお互い言われるまま、聞かれるまま順次応じていた。

 

電話を終えてから、急に、なぜあの時、彼にひと声かけなかったのだろう、という気持ちが湧きあがってきた。 それくらいの分別は持ち合わせている自分であると信じていたのに・・

 

もし、彼がその後、事故もしくは事件に巻き込まれ大変な状況になっていたら、どうするのだろうか。 わたしは、自分の不甲斐なさを恥じながらも、もしかの時の自己保身の弁明さえ考えていた。

その後、警察からはなんの連絡もなかったが、少し落ち着いて自分の行動の選択の有り様に思いを馳せていた。

 

経験のないものに対したとき、ひとは不安や、おそれを抱く。その真っ最中には理性なんて働かない。自己防御に走る。動物と一緒だ。(これは、自分に限っての話です)

理性なんて、あとでスゴスゴ顔を出す程度だ。

いや、認知症の高齢者ではなかったかもしれない・・

きっと、認知症の高齢者であるかもと察し、行動するべきだったのだろう、、悶々と自答を繰り返す。

 

どこに行かれたのでしょうか?

どうかご自宅に帰っていらっしゃいますように。。。(願)

 

火急の時にできる判断や、未経験への対応についての訓練および教育もされていない不甲斐ない自分である。 

恥ずかしい限りであるが、私は何の使命を受け生を受けてきたのか、そんなことまで考えてしまいとても滅入った。皆目、何らの見当もつかなくなり、自己嫌悪に苛まれた夕方から夜の出来事でした。

 

しかし同輩よ、どんどん増えていくぞ。

これから、社会が大きく変わる転換の時期だ。 

この国は、我らが今まで経験したことのない超高齢社会だ。。

が、だから、何をしたら、どうしたらいいんだ?んん、、、??

 

あなたは、目の前を歩いているご老人を、認知症高齢者なのか、ではないのか判断できますか? それを察するためにどのような声掛けができますか。

 

 

やっと金曜日、雨です。。

わたしら一般のサラリーマンの究極の一日ですね。

あと昼食を終えて、2時間ほど書類を整理なんかして(それも午後の心象背景のいろどりになるのだけれど)

そこらあたりから、徐々に身体の緊張感が抜けていくのだが、その後は別の方向からのきんちょうかん(ゆるくなっている感じを出してますw)が襲ってきます。

 

雨も、この程度なら心地よいBGMになるのだが、もちろんこの程度で済むのならです・・(豪雨被害で大変な皆様には申し訳けないです)

 

むむ、しかし今夜の予定は何だったか、たしか何もなかったよね。

なんか予定つくろうかなあぁ、、しかし家呑みも、また楽しからずや、であることだしなぁ、などと思案しているうちにも時は正確に刻まれていく。 

それなのに、いやそれゆえに、以外と仕事もサクサクいくのだ。頭もめっぽう冴えてくる感じ。精神的余裕のなせる業か、それとも週末への感謝からくる高揚なのだろうか。

しかし微かな不安も抱えつつ、うううん、息苦しい。。

この弛緩と緊張がないまぜになっていく空気感が妙に懐かしい。

 

と、休職中最後の金曜日も悶々としながら、仕事を思い出しては、ウトウトし、また半日無駄に過ごしてしまった。

 

雨も、BGMどころではなくなりつつある。。

 

もう木曜日だ。 後半戦に入っている。

もう今日は木曜日だ。ふと水曜から木曜への変わり方が、なんかうろうろしている。 でも、まあいいか。 

だって、次は金曜日だし。 とにかく今日を乗り切る、強い覚悟で、でなきゃぁ 金曜日は来ないなぁw

 

サラリーマンにとって、木曜日は大事な日である。今週の仕事の状況、成り行き、次週へのもっていきかた、また、週中盤での反省及び週末への職員への鼓舞及び次週に向けての戦略等、いや、それはなかなかの緊張感及び面白いものでありますが、、。 

だから、木曜日に食事会程度の一次会(日本でいう)だけがあると、きっと良いのではないかと思います。(翌日も仕事だし…)

 

もっと、日本人も軽く普通に飲めて(極端にいうと昼でも)、帰りも遅くならず、軽い感じでノミュニケーションができたらいいのにね。。。

 

なんか、現状の飲み会は祭りみたいで(ハレとケで発奮するので)、楽しいけれど、寂しさが残りますよね。加えて二日酔いと・・

 

もちろん、そういった飲みも否定するわけではないけれど…

ともあれ、、

ともあれ、軽く飲んで 街を歩きたい年代です。。。わ。